名古屋コーチンの生い立ち

(品種成立までの歴史概説)

   おいしい鶏の代表「名古屋コーチン」は, 明治維新で禄を失った尾張藩士の

血のにじむような努力の結果から生み出された傑作です。

 日本の近代養鶏史の第一ページを飾る 国産実用品種第一号「名古屋コーチ

ン」は, 明治の後半から大正にかけて”ニワトリ”の代名詞でさえありました。

 

明治以前の日本の養鶏

 明治以前の日本では、闘鶏用のシャモや愛玩用のチャボを飼う人はあっても,

いまのように卵や肉を目的とした養鶏はほとんどありませんでした。

 ところが尾張藩では、かなり前から卵や肉を売るために鶏が飼われており

安政のころには地鶏やシャモを改良して卵をよく生む雑種を作って評判を

とった人もいました。

 

維新後の尾張の養鶏

  明治維新後、尾張藩では職を失った士族の転業を支援するための各種講

習のなかに養鶏部門があったこともあり、藩士の中には養鶏をはじめる人も

多くいました。

名古屋のサムライ養鶏は、こうしたこともあって当時からかなり有名でした。

 

名古屋コーチンの生みの親、海部兄弟

 名古屋コーチンの生みの親とされる海部壮平・正秀の兄弟も、海部流砲術の

始祖とされ、尾州藩砲術指南として召抱えられた、海部定右ヱ門正親を祖先と

する尾張藩士でした。

 

兄、海部壮平

  兄の壮平は弘化4年8月13日、名古屋区撞木町坂下筋(現白壁町)で生ま

れ、25歳のときに父とともに東春日井郡池林村池之内(現小牧市)に移り、

雑貨店「よろずや」を開きました。

 店は繁盛していたのですが、養鶏に関心の深かった壮平は明治12年に店を

閉じて養鶏に従事することになり、成鶏1000羽を飼養するまでになりました。

  

壮平の地鶏改良

  しかし、当時の地鶏は体も小さくて(雌で一s弱)産卵数も少なかったため、

これを九斤と交雑、さまざまな交配を進め、次第に理想の鶏に近づけていきま

した。 

  養鶏法や品種の改良を教えてくれる人も参考書もない時代、また明治16年

頃の家禽コレラにより苦心の鶏群が数日にして全滅という憂き目にもあいなが

らも、壮平は懸命の努力で10棟に余る大鶏舎に成鶏に5000羽余りを常時

飼育する大養鶏場にまで発展させました。

   

改良地鶏の普及 

  こうした努力とその経験をまとめた著書「養鶏方案」は明治23年5月、上野

で開催された第3回内国勧業博覧会で三等有功賞を受賞しました。

 壮平はまた近隣の農家にも養鶏を奨めて種々の便宜を図ったため、池之内

は早くから養鶏地として知られ、海部養鶏場には遠近から数多くの人が見学、

購入に訪れました。

  ここでの改良種は海部種、あるいは薄毛(うすげ)と呼ばれて評判を高めて

いきました。

            

 

弟、海部正秀

  一方、弟の正秀は嘉永5年1月26日、次男として出生、幼い頃に一族である

名古屋区南桑名町、海部市郎の許に養嗣子として入籍、廃藩後は兄の壮平

より早くから養鶏に取り組みました。

  壮平が本格的に養鶏に取り組んでからの二人は、池之内と名古屋に離れ

ながら、お互いに助け合い競争しあって養鶏に精魂を傾けました。

  明治21(1888)年、正秀は佐藤正重ら同志6名で愛知種鶏場を設け、ここで

は専ら当時流行のきざしをみせ始めた淡色・褐色プラーマ、白色・褐色レグ

ホーン等、洋種鶏10種類を飼育し改を図りました。

 

 

名古屋コーチンの発展と確立

  明治23年頃から都市養鶏の利点に着目した尾張藩出身の士族仲間、

五味岩太郎や佐藤政重、西春日井郡朝日村(現清洲町)の林浜次郎らは、

改良された「薄毛」を京都・大阪で大いに広め、同地方の専業養鶏の先駆者

なりました。

  「薄毛」はいつのまにか”名古屋コーチン”と呼ばれて評判となり、明治30年

ころには名古屋コーチンという名前が出来上がっていました。

  日本家禽協会が、これをはっきりと一つの“品種”として公認したのは明治

38年のことです。

  大正8年に名古屋種と改名され、現在に至っています。

 

愛知の養鶏史(愛知の養鶏史編さん委員会 編集)より

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